2014年06月16日

「遊」に思う


今日(6月16日)の朝日新聞「天声人語」が面白いので引用してみよう。

〈遊ぶものは神である。神のみが、遊ぶことができた〉。漢字学の大家、白川静さんが「遊」という字を論じた文章だ。遊とは、絶対の自由と豊かな創造の世界だという。では、人間は遊べないのか。そんなことはない。白川さんによれば、神の世界にかかわるとき、人も遊ぶことができた。〈神とともにというよりも、神によりてというべきかも知れない〉と書いている。

これは別に筆者が宗教論を説いているわけではない。 今世界中を沸かせているサッカーW杯で地元ブラジル代表の至宝ネイマール選手の自由にあふれ、創造性がはじける変幻自在のテクニックが神業とか神のプレーと言われているのに比べ、日本の選手は規律や秩序が重んじられ、サッカー少年にも「創造力を伸ばすための自由」が十分与えられていないのではと論じているのである。
これはひるがえって今の日本の教会にも言えるのではないか。あれはいけない、これはいけない、ああしなさい、こうしなければという戒律的な聖書の言葉ばかりに囚われすぎて真の遊ぶという心を忘れていないか。聖書の中の「遊ぶ」とはどういう事か? 神学が問われるところである。「神のみが遊べ、人は神によりて遊べる」とは何とも愉快ではないか。
そう言えば、このテモテ教会を設計した事務所の名前が「遊」である。建築委員の一部には不安を口にする人もいたが、私はむしろ期待をした。何事にも遊び心は必要である。期待通りとは言えないが、玄関の高い空間はその一つである。

(ドクターH)

コメントはこちらから(0件)

この記事へのコメント

コメントを書く
お名前:

コメント:

認証コード: [必須入力]

※下の画像の中の数字5桁を半角で入力してください。


※ブログ管理者が承認したコメントのみ表示されます。